宇井清太の蘭展。
2010年で9回目である。
毎年「ランの栽培講習会」を行ってきた。
受講者は合計で数万人になる。

この講習会で気付いたことがある。
それは・・・多くのラン愛好家は、ランは鉢に植えると喜んでいる。
そういう考えの人が非常に多いということである。

これは、東洋ラン、洋蘭、エビネ、野生ランの全般にわたる。
とんでもない思い違いである。
鉢に植えるということは・・・ランに限らず・・・全部人間の身勝手。
人間の愛好、利便性、利益追求から生まれたもの。
日本の芸術文化「盆栽」も、植物の立場から考えれば、
小さな鉢に植えられて、枝を切られ、針金をまかれて喜んでいるとは考えにくい。
松も大木、巨木になりたいのではないか・・・・。
屋久島の大王杉のように・・・・生きたいのではないか????
シュンランも・・・赤松の根元で・・・・夫婦相愛の姿のように咲きたいのではないか???


鉢に植えるということは・・・・
植物の自生地とは全く異なった人間が作った異空間、異郷である。
特に、ラン栽培では、自生地と異なった埴生・・・の用土で植えられている。
そこには、ランの故郷とは全く異なる・・・根圏の空間がある。
ラン菌が生息していない、枯れ葉もない・・・・炭素循環のない・・・・
異常な新世界があるエリアである。
人間が月に、火星に降り立ったような新世界であろう。
菌根植物であるランから見れば・・・全く異なる世界であろう。
宇宙食ならまだいい。
とんでもない食べ物を・・・・無理に与えられる。
水も・・・欲しいときに飲ませてもらうことも出来ない。
愛好者に隷属することを強いられた姿。
ここまで書くと・・・・相当宇井清太にも抵抗感があるから止めるが・・・
ラン、植物の目線から考えれば・・・・大きくそれていないだろう。

今日まで構築されてきたラン栽培というのは、
地球の悠久の営みを無視して、月の砂漠に植物を植えたようなものであろう。
なぜなら、ラン栽培の用土には、ラン菌が生きていないからである。
水ゴケ、軽石、バーク・・・・・
死の世界にランを植えている。
炭素がない!
燃えることが出来ない。
生命活動というのは炭素を燃やすことなのであるが・・・
光合成の炭素だけでは足りない場合もある。
宇宙船に食料が供給されないのと似ている。
搭乗員は餓死しなければならない事態に陥る。
炭素循環のない鉢というのはそういうことである。
植物が鉢で生きるというのは、宇宙船で食料を自給しているようなもの。
独立自養植物なら、それも可能であるが・・・・
菌根植物であるランは、自給自足できない。
足りない分はラン菌から援助されている。
ラン菌のいない用土というのは、ランから見れば・・・援助されないから・・・
極貧の生活をしなければならない。
ランは極貧に耐えられる進化をしてきたから、どうにか・・・・
水ゴケ、バーク、軽石でも余命をつないで来た。
そういうことである。
決して・・・ランは水ゴケに植えられて喜んでいるのではない。
植物は常に受身である。
与えられた境遇の中で生きるしかないのである。

ランが、植物が生きている場所には、必ず生存可能な水分がある。
しかし、鉢に水を与えない場合はどうなるか???
鉢内は水の存在しない月の砂漠になるのである。
シュンランもエビネも・・・・雪の積もる場所では・・・・
半年雪の下で、湿度100%で生きている。
それを・・・鉢に植えれば、半年カラカラの砂漠。


以上のように、鉢栽培というのは、
植物、特に菌根植物のランから見れば・・・地球上でありながら、
少なくとも微生物環境からみれば・・・・異なる星みたいなものである。
だから、栽培者は、最新の注意を払って・・・・
宇宙にある宇宙船に水、食料を供給するつもりで・・・
鉢内で生きるために必要なもの全てを供給しなければならない。
供給する責務があるのである。
鉢は宇宙船である!

SUGOI-neは宇宙食のようなものである!
鉢に植えられて喜ぶ植物はない
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